2014年2月19日水曜日

構造主義科学論の冒険

池田 清彦

構造主義科学論の冒険

 
 

科学哲学に関する内容と言っていいと思います。

 
まず、著者は、徐々に究極の真理に向かって近づきつつあるという既存の科学理論は、

ナイーブな(幼稚な)科学論だと、一蹴します。

 確かに、現在の科学哲学において、外部世界が実在することを、

証明することは困難なのが実情です。



本著では、実在するのは、『わたし』、『現象』、『コトバ(シニフィエ)』であり、

これによって外部世界は説明することができると言っています(多分)。
 

『わたし』は我思うが唯に存在します。

『現象』はア・プリオリに存在します。

『コトバ』とは、恣意性であるが、共通了解可能性を生み出す道具です。

著者は、「コトバとは変なる現象から不変なるなにかを引き出すことができると

錯覚するための道具である」と言っています。

ただ、現象をコトバによりコードするやり方に根拠はないといいます。

コトバの最終規則をコトバによって言い表すことはできない(自己言及のパラドクス)ようです。

 
その上で、二人の間で科学理論が共通了解可能になるのは、

理論構造を作っているコトバのシニフィエ共通了解である必要は必ずしもなくて、

構造の形式が同じであればいい。

科学の客観性も、現象の一致やコトバのシニフィエの一致によってではなく、

現象からシニフィエへの非明示的な変換形式と、

シニフィエ間の明示的な関係形式の2種類の形式により支えられているということです。

 
書かれている内容に関して、理解するのに、苦労しましたが、

内容としては多くのことが書いてあるわけではなく、内容も了解できます。

おそらく、哲学の世界ではこういう考え方に対しても、批判があるでしょうから、

それも知りたいところです。



『コトバ』の重要性にもっと自覚的でありたいと思いました。

症状なり、病名を、コトバに変換した瞬間に、それは実在してしまうのです。

それが、共通了解に役立って行けば良いのですが、

それが錯覚にすぎず誤解を生んでしまったり、

実在させなくてもよかったものを実在させてしまったりする罪を生み出すこともあるでしょう。