ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ
今回は『対話』=『ダイアローグ』に関してです。
まずは、対話とは何かを、ダイアローグとディスカッションの対比から見てみます。
ディスカッションには物事を壊す、という意味がある。
ディスカッションは分析という考え方を重視する。
そこには様々な視点が存在し、つまり分析し、解体しているのである。
それに価値がないわけではないが、限界があるし、多様な視点が存在する段階からさほど先に進めないだろう。
そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。
しかし対話では勝利を得ようとする者はいない。
対話にはディスカッションとは異なる精神がある。
対話では点を得ようとする試みも、自分独自の意見を通そうとする試みも見られない。
それどころか、誰かの間違いが発見されれば、全員が得をすることになる。
これはお互いに満足のいくゲームとよばれる状況だ。
正確に同じ意味では反応しないのが普通だ。
というより、話し手と聞き手双方の意味はただ似ているだけで、同一のものではない。
だから、話しかけられた人が答えたとき、最初の話しては、
自分が言おうとしたことと、相手が理解したこととの間に差があることに気づく。
この差を考慮すれば、最初の話し手は、自分の意見と相手の意見の両方に関連する、
何か新しいものを見つけ出せるのかもしれない。
そのようにして話が往復し、話している双方に共通の新しい内容が絶えず生まれていく。
したがって対話では、話し手のどちらも、
自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。
むしろ、二人の人間が何かを協力して作るといったほうがいいだろう。
つまり、新たなものを一緒に想像するということだ。
でも対話が困難であることはよく経験します。
対話の難しさとはどういうことでしょう。
対話への試みは非常に欲求不満の募るものにもなりうる。
私は単なる理論としてではなく、経験からこう述べている。
不安な要素もあるかもしれない。
それに加えて、どんな規模にしろ、グループで対話しようとすれば、
他にも問題が出てくるだろう。
自己主張をしたがる人もいるはずだ。
彼らは苦もなく話し、支配的な立場に立つ。
自分が支配者だというイメージを持っているのかもしれないし、
そこからある程度の安心感や高揚感を得られるのだろう。
しかし、話すことにそれほどの自信がない人たちもいる。
彼らは気後れしがちで、支配的な人がいる場合には特にその傾向が強まる。
自信がない人々は、自分が笑いものにならないかといった類のことを恐れているのだ。
人が選ぶ役割は様々である。
支配者的な役割を選ぶものをいれば、支配されやすく、
弱くて非力な人間という役割を選ぶ者もいる。
そうした人たちが、いわば互いに協力して働いているわけである。
こういった『役割』は実をいえば、想定や意見に基づいたものだが、
対話する上での障害にもなるだろう。
いずれにしても、人は自分自身についていくつかの想定を持っている。
しかも子供の頃から、お前はこんな性格だとか、
あんな人間だのこんな人間だのと、みんなに言われてきたのだ。
よい経験にせよ、悪い経験にせよ、人はさまざまな経験を積んできている。
こうした事柄が、対話しようとしたときに浮上してくる問題の一部なのである。
対話がうまくいかない場合、そうした場合は、
お互いの想定、信念が対立している故に衝突すると考えられます。
自分の信念と相手の信念を理解することで、お互いの立場や意見の理解が進み、
対話はうまく進むと可能性があるということなのだと思います。
普通人は自らの信念に無意識であるが、
信念は自動的に、意見や感情に影響を及ぼしています。
信念を意識することで、自分の意見や感情がどうしてそのように生まれているのか
理解することができるようになるのではないでしょうか?
これって、認知療法の、信念-自動思考-感情の概念と同じではないでしょうか。
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