2012年6月8日金曜日

ダイアローグ

デヴィッド・ボーム

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ



今回は『対話』=『ダイアローグ』に関してです。

まずは、対話とは何かを、ダイアローグとディスカッションの対比から見てみます。


ダイアローグとディスカッションと言う言葉を比較してみよう。
ディスカッションには物事を壊す、という意味がある。
ディスカッションは分析という考え方を重視する。
そこには様々な視点が存在し、つまり分析し、解体しているのである。
それに価値がないわけではないが、限界があるし、多様な視点が存在する段階からさほど先に進めないだろう。
そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。

しかし対話では勝利を得ようとする者はいない。
対話にはディスカッションとは異なる精神がある。
対話では点を得ようとする試みも、自分独自の意見を通そうとする試みも見られない。
それどころか、誰かの間違いが発見されれば、全員が得をすることになる。
これはお互いに満足のいくゲームとよばれる状況だ。


それでは、対話とはどういったものなのでしょうか?


対話では、人が何かを行った場合、相手は最初の人間が期待したものと、
正確に同じ意味では反応しないのが普通だ。
というより、話し手と聞き手双方の意味はただ似ているだけで、同一のものではない。
だから、話しかけられた人が答えたとき、最初の話しては、
自分が言おうとしたことと、相手が理解したこととの間に差があることに気づく。
この差を考慮すれば、最初の話し手は、自分の意見と相手の意見の両方に関連する、
何か新しいものを見つけ出せるのかもしれない。
そのようにして話が往復し、話している双方に共通の新しい内容が絶えず生まれていく
したがって対話では、話し手のどちらも、
自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。
むしろ、二人の人間が何かを協力して作るといったほうがいいだろう。
つまり、新たなものを一緒に想像するということだ。



でも対話が困難であることはよく経験します。

対話の難しさとはどういうことでしょう。


対話への試みは非常に欲求不満の募るものにもなりうる。
私は単なる理論としてではなく、経験からこう述べている。
不安な要素もあるかもしれない。
それに加えて、どんな規模にしろ、グループで対話しようとすれば、
他にも問題が出てくるだろう。
自己主張をしたがる人もいるはずだ。
彼らは苦もなく話し、支配的な立場に立つ。
自分が支配者だというイメージを持っているのかもしれないし、
そこからある程度の安心感や高揚感を得られるのだろう。
しかし、話すことにそれほどの自信がない人たちもいる。
彼らは気後れしがちで、支配的な人がいる場合には特にその傾向が強まる。
自信がない人々は、自分が笑いものにならないかといった類のことを恐れているのだ。

人が選ぶ役割は様々である。
支配者的な役割を選ぶものをいれば、支配されやすく、
弱くて非力な人間という役割を選ぶ者もいる。
そうした人たちが、いわば互いに協力して働いているわけである。
こういった『役割』は実をいえば、想定や意見に基づいたものだが、
対話する上での障害にもなるだろう。
いずれにしても、人は自分自身についていくつかの想定を持っている。
しかも子供の頃から、お前はこんな性格だとか、
あんな人間だのこんな人間だのと、みんなに言われてきたのだ。
よい経験にせよ、悪い経験にせよ、人はさまざまな経験を積んできている。
こうした事柄が、対話しようとしたときに浮上してくる問題の一部なのである。


感想です。


想定というのは信念と言うことだと思います。

対話がうまくいかない場合、そうした場合は、
お互いの想定、信念が対立している故に衝突すると考えられます。
自分の信念と相手の信念を理解することで、お互いの立場や意見の理解が進み、
対話はうまく進むと可能性があるということなのだと思います。

普通人は自らの信念に無意識であるが、
信念は自動的に、意見や感情に影響を及ぼしています。
信念を意識することで、自分の意見や感情がどうしてそのように生まれているのか
理解することができるようになるのではないでしょうか?

これって、認知療法の、信念-自動思考-感情の概念と同じではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿