2012年3月23日金曜日

疑似科学と科学の哲学


伊勢田 哲治

疑似科学と科学の哲学


創造科学論争、占星術、超能力研究、代替医療という疑似科学』を、

どのように、『科学』と区別するのかという『線引き問題』を例題にあげながら、

科学哲学の解説を進めていきます。

『科学哲学の冒険』よりも一歩進んだ内容となっており、正直、一部は理解できていません。


線引き基準のひとつとして、反証主義があります。

反証不能(反証条件を特定できないような理論)であるものは科学とは言えないという考え方です。

しかし、反証主義には問題点があり(仮説演繹法でも問題)、それを『過小決定』と言います。

どんな観察結果がでようが、補助仮説群に手を加えること(仮説と観察のつじつまをあわせること:後付けの変更)によってテストされる仮説をすくい続けることができる。

クワインは、『どんな仮説でもどんな観察からも支持される』という過激な主張に仕立て上げる。

つまり、ふたつの仮説が対立しているときに、観察のみによって両者の一方を排除することはできない、

これを『決定実験の不可能性』といいます。

このように、観察によって仮説が決定されないという考え方を『過小決定』といいます。

反証主義だけでは、単純に線引きはできないのです。

例えば、漢方(代替医療)は間違っているという条件(反証条件)は存在するでしょうか?

代替医療をRCTで検討した報告はあるので、反証不能とも言えなさそうです。

しかし漢方はひとりひとりを対象にしたオーダーメイド医療だから、RCTでネガティブだとしても、

漢方に効果がないとは言えないなど、やはり反証条件だけでは線引きは難しそうです。


次の線引きの基準として、新しい科学理論は前の理論に積み上げる形で作られ、

それによって科学は蓄積的に進歩していく、科学とはそう言った性質のものであるという考え方があります。

これに対してポパーは、理論を積み上げる基礎になる証拠(基礎言明)はだんだん蓄積していくけれども、

理論そのものは蓄積していかないと批判します。

これをさらに推し進めたのが、トーマス・クーンのパラダイム論で、

2つの概念、『観察の理論負荷性』と『通約不可能性』という概念の理解が必要です。

観察の理論負荷性:自分の理論にあわない出来事はノイズとして処理され意識にも上らない。我々の知覚はわれわれが背景としてもつ理論から完全に独立ではありえない。

通約不可能性(クーン、ファイヤアーベント):観察の理論負荷性の1つの帰結として、ある観点からはノイズとして処理された様な(つまりは意識にも上らない)事例が別の観点からは重要な事実になるなどして、別の理論は別のデータのセットを持つことになろう。
それぞれの理論の支持者は自分のもつデータに基づいて自分の理論を支持し、対立する理論の支持者の提示するデータは意味不明だと考える。これでは、理論の優劣を比較することはできず、ましてや直線的に新しい理論が積み立てられることもない。

こうした考え方でも、通常医療と代替医療を線引きすることまでは難しそうです。

代替医療だって、蓄積的進歩が認められると主張できます。


線引き問題は、科学と非科学ないし疑似科学との間の明確な境界を設定することを目的としてきました。

しかしながら、そうした方向で線引き問題が解決できる見込みは絶望的だと著者は言います。

ラリー・ラウダンなどは、『線引き問題の逝去』と言う論文の中で、

科学の必要十分条件を与えるなど不可能で科学と疑似科学の間の線引きなどできないと論じています。

そこで著者は、『科学と疑似科学は区別できる。しかしそれは線引きという形での区別ではない』と言います。

それはオールオアナッシングの考え方ではなく、程度の考え方を取り入れることということです。

上記で紹介されたような線引きの条件にどの程度合致しているかで、

どの程度科学的であるかを判断するという方法です。


この程度の考え方とは、ベイズ主義の考え方を応用するということです。
仮説演繹法をベイズ主義の枠組みで考えなおすと、過小決定の問題も考えやすくなる。
仮説演繹法や反証主義が過小決定の問題でつまずいたのは、演繹に頼りすぎたせいである。
後付けの変更ができてしまうと仮説と証拠の間に演繹の関係(つまりは100%の予測確率)は成り立たなくなってしまい、仮説は厳密な意味では検証も反証も可能ではなくなってしまう。
検証や反証だけを仮説の正当化の根拠だと考えていた場合、下手をすると何でもありのアナーキズムに走ってしまう。
しかし、ベイズ主義の考え方なら、仮説と証拠の間をむすぶさまざまな補助仮説を考慮したり証拠の内容を考慮したりして、その証拠が仮説にとってどの程度不利なのか、という『程度』の判断ができる。

ベイズ主義に対する批判の1つとして、『信念の度合い』などという主観的なものが科学と関係があると考えるなどけしからん、科学はもっと客観的である、というような批判がよく出てくる。
それに対しては、ベイズ主義が扱うのはわれわれと独立に起きている世界の出来事ではなく、それについて我々の真式である、という意味での『主観的』確率なのである。
そして、そうした確率の割りあては、科学的方法論が客観的でありうる限りにおいて十分客観的でありうるのである。
ベイズ主義でいう『確率』、すなわち『信念の度合い』は、すべて『背景情報の下での確率』、『背景情報の下での信念の度合い』である。
したがって、たとえば、背景情報から考えてどう見てもありえないようなことには高い事前確率は与えられない。
つまり、主観的確率といえ何でもありなわけでない。

帰納的推論に関しては、我々は日常的に帰納的推論を日常的に行っており、
『できないことを義務付けても意味がない』として、『帰納的推論を禁止しても意味がない』、
つまり、帰納的推論をするなといってもできないのである。
というわけで、ベイズ主義を選ぶか選ばないかにかかわらず、帰納主義の考え方はどうしても必要だろう。


1人の臨床医として
(1) 通常の医療(西洋医学)は代替医療に比較して優れていると、説明できるだろうか?
多くの代替医療が保険診療でカバーされている現状を批判できるだろうか?

(2) EBMに基づいた診療が、いわゆるマニュアル診療よりも優れていると説明できるだろうか?

(3) EBMとか言いながら、結局は、最後は医師の信念が左右しているだけで、科学的といえるのだろうか?

こうした、疑問に、1つの答えを見いだせないかと思い、読み始めたのが『科学哲学』の分野でした。


一番目の疑問に関して、本書では、一章をさいて、解説してくれて、まさに、うってつけの内容といえました。

しかし、残念ながら、代替医療と通常の医療の間にきれいに線引きをしてくれたわけではないので、

理解は深まったが、疑問は解決されませんでした。

特に、科学社会学とか、科学的知識社会学を持ち出されると、なんか、

社会的な判断を科学に持ち込むともうそれは、科学といえるのか、よくわからくなっちゃうというのが感想です。


本書では、ベイズ主義も持ち出して、程度という観念を用いて、科学を擁護しています。

『科学哲学の冒険』では意味論的捉え方で、

科学の目的は類似したモデルを作ることだとしていたことと似ていると感じました。


ベイズ主義は臨床医としては、非常に馴染みがあり、よくわかります。

でも、これって、哲学なのかなぁ、もう少し、いろいろ勉強する必要を感じました。

結局は、個人の信念や、社会的な影響を排除してしまったら、科学とは成立しないのでしょうか。

個人の信念や社会的な影響があっても、

全体(または将来)としては科学は合理的に真実に近似することはそうだと思います。

でも、部分(または現在)としては、真実に近似できているかは所詮知りうることはできないのでしょうか?

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